第44号 信頼ある社会(2)

山本 哲史 名古屋大学大学院法学研究科特任講師
(モンゴル国立大学法学部日本法センター勤務)
東京大学寄附講座「難民移民(法学館)」前事務局長

前回、「信頼ある社会」と題して、社会の仕組みに信頼が果たしている役割を観察してみると、その重要性について改めて考えさせられるといった趣旨のことを書きました。
今回も引き続き、そうしたことや法の限界について考えてみたいと思います。 ■マフラーがない
モンゴル人にはプライドの高い人が少なくないので接し方を誤らないように、といったアドバイスを読んだことがあります。
私は必ずしもそう感じない、といっても人それぞれでしょうからなんとも言えないのですが、仮にプライドが高いとしたら、それは特に人への信頼に関する部分についてではないだろうかと思うことがあります。
先日、ウランバートル最上級のホテルで会食する機会がありました。とっくに氷点下に突入しているこの世界最低気温の首都では防寒対策が必須ですので、私は帽子にマフラーに手袋にと、万全の状態でお店を訪れました。
楽しい時間が過ぎた帰り際、預けてあった上着の返却を受けましたが、すぐに帽子と手袋がないことに気づき、それらも返却してくださいと申し出ました。
帰り道、それでもマフラーを返却してもらっていないことに気づき、しかしもう引き返すには遠くなっていましたので電話をしたところ、「ありません」というので、翌日そのお店に足を運び、マフラーを返却してもらうようにお願いしたところ、やはり「ない」とのこと。
預けた上着類を一括で返却されなかったこと、それに再びそのことを指摘した際にも、まだマフラーを忘れていたこと。自分の不注意もなくはないとしても、や はり店側の対応の問題だと思い、残念な思いでいたところ、追い打ちをかけるように「うちの店では、忘れ物は紙切れ一枚でも保管しておいて必ず返却します」 と言われました。
人の物を取るような真似をする従業員はうちには一人もいない、と。
同僚からの頂き物の高級カシミアだったので、諦めきれない思いでいましたが、もはや、あったなかったという水掛け論をしてもしょうがない、と自分に言い聞かせました。
その時ふと、上記の「アドバイス」のことを思い出しました。
■信頼とプライドの方向性
そして少し考えました。
まず、一般的にも、信頼とプライドには何か関係がありそうだ、ということ。
そして信頼もプライドも、誰に対してのものであるか、という方向性のあるものである、ということ。
それは場合によっては、ある人に対する信頼を貫き、また、ある人に対してプライド高い姿を見せ続けることは、他方ではまた別の人を疑い、否定することを意味することにもなるということ。
そういう意味では、自分と特定の相手の他に多数の人々のいる場所、つまり社会の中では、信頼もプライドも、相対的なものに過ぎないということ。
私たち研究者には、職業柄、世の中の制度や仕組みを記述するということがよくあるのですが、それを普遍的な真理のように語るべきではない、ということを改めて意識した場面でした。
「人間の安全保障」は、弱者目線のアプローチを要素とすると強調されますが(vulnerabilityの重視)、その目線がどういうものであるのか、そのこと自体の記述を怠ることのないようにしなければならないように思います。
裕福な家に生まれ、苦労を知らずに高等教育を受けて優秀に育ち、高い社会的地位を得た人に、「人間の安全保障」を語られても、何か説得力を感じない、そうしたことの根底にもつながることなのかもしれません。
■自身を客観化することの難しさと他者の立場への配慮
前回少し書きましたヴァイツゼッカーが法の限界を警告したことの背景には、法の崇高な理念と複雑な論理が、ともすればその立場を絶対的なものとして錯覚させかねない、という問題意識があるように思います。
私たちはみな、誰かの味方であるのと同時に、誰かの敵なのだということ。
カール・シュミットが敵と味方の峻別こそ政治の本質であると指摘したことは有名ですが(田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』未來社、1970 年)、そのことを自然の摂理のように受け容れよというのではなく、想像力や共感する力を駆使し、克服しようと努力することは重要であると思います。
そのためにも、その意識を出発点としては忘れてはならないと思うのです。法や正義の限界にも関係していることかもしれません。


 
伊藤塾塾便り244号/HUMAN SECURITYニュース(第44号 2015年12月発行)より掲載